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買った文庫本があった。
文庫本のタイトルは「ティファニーで朝食を」
今にして思えば、アンファン・テリブルといわれたカポーティの作品なのだから
きっと都会的で理知的で少々皮肉っぽくって、原文を読めば(読めないけど)
当時のニューヨークの様子を伺い知ることができて、さぞ面白かったと
思うのだが、いかんせん、高校生だった私に瀧口氏の訳は退屈でしかなかった。
それよりも、オマケのようにひっそりと入っていた短編
「クリスマスの思い出」の方が印象に残り、今でも、この時季になると
何かのタイミングで必ず思い出す作品だ。
親戚の家にやっかいになっている少年(カポーティ自身?)と
オールドメイドの60歳の遠縁の老女が、11月のある日、クリスマスに向けて
フルーツケーキ作りを始める。
オールドメイドの60歳の遠縁の老女が、11月のある日、クリスマスに向けて
フルーツケーキ作りを始める。
二人は1年間、この日のために、手伝いをしてもらったお駄賃をコツコツと
貯めていた。
そのお金で、二人は、粉、レーズン、ピカンナッツ、ウィスキーを買う。
このケーキは彼らが1度しか会ったことのない人、1度も会ったことがない人
そしていつも世話になっている人たちに送られる。郵送するのだ。
そして、クリスマスツリーにする木を森に切り出しに行き、お互いにこっそりと
わくわくしなからプレゼントを作りあったりする。
ケーキをすべて発送した後は最後の小銭をはたいて、飼い犬に肉つきの骨を
奮発したりして。
奮発したりして。
クリスマス・イブ(イブを祝う習慣はないらしい)クリスマスを待ちきれない2人は
ケーキの残りのウィスキーをおそるおそる嘗めて、いい気分になり、踊りだして
親戚の人に叱られ、しゅんとなるのだが、一夜明けてクリスマスになると
それもすっかり忘れてしまい、二人でお互いに贈り合った大凧をあげて遊ぶ。
それもすっかり忘れてしまい、二人でお互いに贈り合った大凧をあげて遊ぶ。
もちろん、プレゼントに骨をもらった犬も一緒に。
たったこれだけの物語なのに、いつまでも忘れられないのは何故だろう?
この物語は私だけでなく、多くの人に絶賛されている作品のようで
書評を読むと「イノセンス」という言葉が多く使われている。
そんな難しい(?)言葉でなくても、私たちが待ち望んだクリスマスの
根底にあるもの、原風景、それを思い出させてくれるから、では
ないのかしら?
馬小屋に眠る幼子を一目見るために、真夜中にもかかわらず
羊飼いたちがわくわくしながら道を急いだような。
ないのかしら?
馬小屋に眠る幼子を一目見るために、真夜中にもかかわらず
羊飼いたちがわくわくしながら道を急いだような。
あ、それこそが「イノセンス」なのか。
最近は村上春樹さんが翻訳したものも出版されている。
ふーん、なんだ、みんなこの作品が好きなのね。
そういえば、オーブンを新しくしてから、フルーツケーキを作ってないなー。
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いちご白書」は70年代のアメリカの学生運動を描いたものだが
60年代の学生運動を背景として語られた「されどわれらが日々ー」
60年代の学生運動を背景として語られた「されどわれらが日々ー」
これを読んだ高校生の時は、生真面目で下手な生き方しかできない
登場人物たちに憧れ、何度も読み返し、好きな言葉を抜書きしたり
していたが、今になって読み返すと時代があまりにも違うので
あまりにもじれったくなってしまうのは私だけではないだろう。
だが、今でも心に残る言葉はある。
あなた方の頃はどうっだったのかと。その時私たちは答えるだろう。
私たちの頃にも同じような困難があった。もちろん時代が違うから
違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。
そして私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも
時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人が
いたのだと。そして、その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が、
そういうことが昔もあった以上、今われわれにもそうした勇気を持つことは
許されていると考えるとしたら、そこまで老いていった私たちの生にも
それなりの意味があったと言えるのかもしれない。
そして、「されどわれらが・・・」から何年も後に、寡作な柴田翔氏が
その続編のように書いた 「われら戦友たち」
この時、作家の目はすでに60年代を懐かしむ気持ちになっている。
すでに過ぎ去った時代を懐かしむ、と同時に自虐しているようにも
思えるが、自分自身への鎮魂歌の意味も込めたこの作品を
柴田翔氏はどうしても上梓しなければならなかったのだろう。
彼の言葉を借りて言うならば、この本はそういう運命にあったのだろう。
この後(前からか)、柴田翔は東大文学部の教授になり
文学部長にもなるが、それ以後、ほとんど作家としての活動をしていない。
もったいない、なんてもんじゃない。
どうしてもダブってしまうのは、東大出身の芥川賞作家で、作品を4つほど
書いただけで、後は隠遁生活をしている庄司薫氏
引き際があっさり、きっぱりしている、というか・・・
あ、でも今の言葉で言うとしたら「ヘタレ」かな(笑)
今朝の日経新聞の「春秋」欄で目に止まった箇所
・・・けれど大学生なら、まず自らを律してほしい。
米コロンビア大の紛争を描いた「いちご白書」に
著書のジェームズ・クネンは「麻薬のたぐいと酒類は
一切締め出すことを決議していた」と記している。
ドラッグ全盛期でもこんな良心はあったのだが。
コラムの内容はどうでもいい。
「いちご白書」という言葉を、久しぶりに目にして懐かしかった。
私はこの映画を映画館で見たわけではなく、後になってテレビで
放送されたものを見たのだが、途中で本を読み始めたくらい
面白くなかった。
私が学生の頃、とうに学生運動というものは終わりを告げていた。
少なくとも私が過ごしたキャンパスでは。
話題になった映画だったが、学生運動そのものに興味がなかったの
だからしょうがないと言えば、しょうがない。
文庫本も買っていた。
たぶん、これも全部読んでないはずだ。
だが、無抵抗の学生たちが次々と警官に引きずり出され、象徴的な
ストップモーションで終わる映画のラストシーン、それに被さるように
流れたバフィ・セント・メリーの「サークル・ゲーム」を今でもはっきり
思い出すことができる。
映画を見ていない人に説明するとしたら
金八先生シリーズの「腐ったミカンの方程式」で沖田浩之や
直江喜一が警官に捕まるシーンがスローモーションで流れ
そこに中島みゆきの低い太い声で「世情」が流れる、あれを見た
衝撃に似ている。
どうでもいいことだが、あのちょっと尖った声のバフィ・セント・メリーは
ネイティブ・アメリカンだそうだ。
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老後はミモザ館(やかた)の
女主人になることを夢見つつ
4匹の猫と暮らす。
(いつの間にか5匹に)
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