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2018年3月11日
東京は風もなく暖かだ。
2011年3月11日の震災の後
私はしばらくの間、お昼休みになると
同僚を相手に福島の実家の話をして
その度にめそめそと泣いていた。
福島に住む両親のことが心配だった。
震災の後の混乱、断水、食べ物の不足。
自販機の水ですら買い方を知らない父。
そして、福島に降った放射能。
交通手段は完全に途絶え
長距離バスで両親を呼び寄せようか、と
考えたこともあった。
しかし、その長距離バスでさえ
郡山からしか出ていないのだった。
自分が物資を持って福島に行きたくても
できない、というもどかしさ。
私の住む東京では少しずつ日常を取り戻していくのに
日に日に不安な環境になる(と当時は思った)故郷。
先のことがまったく考えられないこと
不自由な生活を強いられている高齢の両親
なんの支障もなく生活している無力な自分。
知識がないために、不安ばかりが募る毎日だった。
混乱して弟に出したメールの返信は
「まあ、落ち着いて」だった。
冷静な弟の文章に、自分だけが焦っていた、と反省した。
あの震災から7年が経った。
今年の2月、中学の合同クラス会があり福島に行った。
会の終わり頃、突然
「そうだ、ここにいる福島の人たちは
全員、震災を経験しているんだ!」
と、思った。
楽しい話ばかりで、それを忘れていた。
次の日、都合でクラス会に不参加だった友人に会った。
(しかも30年ぶりに)
観光しながら、ふと思い出して口に出してみた。
「きのうね、ここにいる福島の人たちは
震災を経験してるんだ、とハッとしたの。
震災からしばらく、私は東京で毎日泣いていて・・・」
「え?どうして?」
と、友人は不思議そうに聞き返した。
私は狼狽した。
必死で普段の調子で言った。
「うん、両親が不自由な生活をしているのに
何もできなくて。
そして、原発事故でしょう。」
そうなのだ。
実際に住んでもいない
東京で支障のない生活をしている私が
何も行動しないまま、ただ泣いていた、ということを
震災のど真ん中で生活していた人に言うなど
不遜なこと以外の何物でもない。
頭の良い友人は
「あれからもう、随分時間が経ったから。」
と、静かに言って話を切り替えた。
私はこのことを、しばらく忘れないだろう。
震災から7年目の今日
思っているだけでは伝わらない、と思ったので
いつもの私のブログの雰囲気とは違うことを
書いてみた。
このまま終わるのも何なので
もうひとつ、合同クラス会でのことを。
乾杯の音頭は、現在、県の教育長
同じクラスだったS君が指名された。
乾杯の前のスピーチに、慣れてるなあと感心し
別にここでそんな長く話をしなくても、と聞いていた。
話の締めくくりに
「今、福島では東電に就職したい、という子が出てきている。
就職して、自分の手で今の状態をなんとかしよう、と思っている。
東電を恨むばかりではなく、少しずつ考えが変わってきている。」
持っていた杯が少しぼやけて見え
その後に続いた言葉は忘れてしまった。
そこが肝心なのに。
クラス委員長だったじゅんぺい
ありがとう、おしえてくれて。
アンタが教育長で良かった、と
意味なく思ったよ。
2018年3月11日
思いの記録として。
東京は風もなく暖かだ。
2011年3月11日の震災の後
私はしばらくの間、お昼休みになると
同僚を相手に福島の実家の話をして
その度にめそめそと泣いていた。
福島に住む両親のことが心配だった。
震災の後の混乱、断水、食べ物の不足。
自販機の水ですら買い方を知らない父。
そして、福島に降った放射能。
交通手段は完全に途絶え
長距離バスで両親を呼び寄せようか、と
考えたこともあった。
しかし、その長距離バスでさえ
郡山からしか出ていないのだった。
自分が物資を持って福島に行きたくても
できない、というもどかしさ。
私の住む東京では少しずつ日常を取り戻していくのに
日に日に不安な環境になる(と当時は思った)故郷。
先のことがまったく考えられないこと
不自由な生活を強いられている高齢の両親
なんの支障もなく生活している無力な自分。
知識がないために、不安ばかりが募る毎日だった。
混乱して弟に出したメールの返信は
「まあ、落ち着いて」だった。
冷静な弟の文章に、自分だけが焦っていた、と反省した。
あの震災から7年が経った。
今年の2月、中学の合同クラス会があり福島に行った。
会の終わり頃、突然
「そうだ、ここにいる福島の人たちは
全員、震災を経験しているんだ!」
と、思った。
楽しい話ばかりで、それを忘れていた。
次の日、都合でクラス会に不参加だった友人に会った。
(しかも30年ぶりに)
観光しながら、ふと思い出して口に出してみた。
「きのうね、ここにいる福島の人たちは
震災を経験してるんだ、とハッとしたの。
震災からしばらく、私は東京で毎日泣いていて・・・」
「え?どうして?」
と、友人は不思議そうに聞き返した。
私は狼狽した。
必死で普段の調子で言った。
「うん、両親が不自由な生活をしているのに
何もできなくて。
そして、原発事故でしょう。」
そうなのだ。
実際に住んでもいない
東京で支障のない生活をしている私が
何も行動しないまま、ただ泣いていた、ということを
震災のど真ん中で生活していた人に言うなど
不遜なこと以外の何物でもない。
頭の良い友人は
「あれからもう、随分時間が経ったから。」
と、静かに言って話を切り替えた。
私はこのことを、しばらく忘れないだろう。
震災から7年目の今日
思っているだけでは伝わらない、と思ったので
いつもの私のブログの雰囲気とは違うことを
書いてみた。
このまま終わるのも何なので
もうひとつ、合同クラス会でのことを。
乾杯の音頭は、現在、県の教育長
同じクラスだったS君が指名された。
乾杯の前のスピーチに、慣れてるなあと感心し
別にここでそんな長く話をしなくても、と聞いていた。
話の締めくくりに
「今、福島では東電に就職したい、という子が出てきている。
就職して、自分の手で今の状態をなんとかしよう、と思っている。
東電を恨むばかりではなく、少しずつ考えが変わってきている。」
持っていた杯が少しぼやけて見え
その後に続いた言葉は忘れてしまった。
そこが肝心なのに。
クラス委員長だったじゅんぺい
ありがとう、おしえてくれて。
アンタが教育長で良かった、と
意味なく思ったよ。
2018年3月11日
思いの記録として。
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HN:
椿
性別:
女性
趣味:
読書など
自己紹介:
老後はミモザ館(やかた)の
女主人になることを夢見つつ
4匹の猫と暮らす。
(いつの間にか5匹に)
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